2019年

2019年12月21日

「ひと」小野寺史宜

猫が飛び出してきて、ハンドル操作を誤って死亡した父。

その数年後、過労ゆえか布団のなかで突然死した母。

二十歳の秋、柏木聖輔はまったくの独りになった。

大学をやめ、アパートへの道すがら、なけなしの小銭でコロッケを買おうとした。

おばあちゃんが割り込んで来て、先にどうぞと言うしかなく、残り一つのコロッケは無くなった。

でも、その偶然が、惣菜屋田野倉の主人督次との出会いとなった。

田野倉でアルバイトを始めた聖輔は、配達の途中に高校時代のクラスメート青葉とすれ違った。

青葉は、聖輔だとすぐに直感した。

なぜなら、高校の廊下ですれ違う聖輔のしぐさは、相手への思いやりに溢れていたから。

一緒に歩いていた青葉の元カレの高瀬は、車が通らないなら赤信号でもわたる人。

優先席が空いていたら、構わずに座り、高齢者が乗ってきたら、座りたいですかと聞くような人。

僕は、ドアを開けて次の人が続いて来るなら、その人が来るまで開けて待ってあげたい。

お年寄りが困っていれば声をかけて、手伝うことがあるかを聞きたい。

人生に必要なものは何だろう。

人生は、そういう小さな仕草や行動から成り立っている。

人を敬う、愛する、そういう気持ちは、それらの行動から醸成されていく。

人生という道にあって、自転車を全力で漕ぎながら走る人。

ゆっくりと周りを楽しみながら走る人。

本当に人生に必要なものは何だろう。

時には、自転車を押しながら歩く人でありたい。

二人でゆっくりとサイクリングしながら、時には歩いていたい。

そんな、ゆったりとした心構えを持ちたい。

そういう懐かしさと優しさに彩られた小説である。


2019年12月16日

「本日もビンボーなり」松下竜一

〜辿々しさ〜

再読。松下竜一さんがご存命の頃、中津市に講演を聞きに行きました。

ゲストは佐高信さんで、毒舌と軽妙な政治批評で聴衆を笑いに誘います。

そのあとで松下さんが登壇し、沈黙を挟みながら実にゆっくりとしたリズムで話します。

お世辞にも上手とは言えませんが、言葉を確認しながら話すことで、何か確固としたものを持っているように感じました。

また、「ラジオ深夜便」に出演した際に、九州の片田舎から列車に揺られて、はるばる東京まで来たと話していました。

ゆっくりと訥々と語る話しぶりに、女性アナウンサーが困っているように思いました。

松下さんの言葉を聞いて感じたことは、うまくなくてもいいんだという解放感でした。

生き方も話し方もぎこちない不器用さに、私はホッとするような安堵と親近感を覚えました。

私は話し下手です。だからこうやって文章を書くのかもしれません。そして、自分の辿々しさが好きになりました。

言葉が雄弁であるのは素晴らしいことですが、不器用な話し方は、何か信頼を得て救われるような、そんな魅力もあります。

松下さんは便利さとしての文明を分別なく受け入れるのではなく、人々や自然への犠牲を最小限に留めながら、いかに自然と共生できるかを考えた人です。

作品の主人公たちの生き様に感じるものは、彼の共感や同情であり、宮沢賢治のこの言葉に集約されるのではと思っています。

”かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし。”


2019年12月15日

「絵を描く日常」玉村豊男

長野県東御市の「ヴィラデスト」に伺ったとき、奥さまから気軽に声をかけられ私たち夫婦はとても嬉しく感じました。

レストラン、カフェ、ショップ、ワイナリー、広大な葡萄畑。私たちはそこで半日を過ごしました。

憧れていたのは、玉村さんの自然観や絵画への向き合い方だと思っています。

前日に、安曇野の「いわさきちひろ美術館」を訪ねたとき、小さな原画を見て色彩の美しさに感動しました。

画集に表れることのない絵画の表情は、勢いで輪郭が壊れてしまった線さえも、ちひろの息遣いを感じます。

本物の感動は、言葉や論理では分からない、置き換えられない世界でした。

どのようにしてこんな色彩を出したのか、乾く前はどんな色だったのか、どんな順番で描いたのか。

色彩の滲みはどれくらいの量を筆につけてどのように動かしていったのか。

手首の動きは、速さはどれくらいか、描き上げた時間はどれくらいか。

さまざまな思考が駆け巡って、寡黙にならざるを得ませんでした。

絵の楽しみ方はたくさんあります。

私がとても大事にするのは、描く時の時間を楽しむことです。

朝の静寂のなかで、一人で集中して黙々と描き続けます。

感性を研ぎ澄まし、自信を持ち、自分の世界を信じて表現します。

多忙であるときこそ、ゆったりした自分だけの時間を持ちたいと思います。

絵を描く日常、そんなひとときを作りたくなりましたね。


2019年12月13日

「ある明治人の記録」石光真人編著

私は歴史を常に勝者の側から見てきたように思う。

歴史の陰で生きた人たちの悲哀や煮えたぎる思いを思慮したことは無かった。

柴五郎が齢十歳の時に鶴ヶ城落城。薩長土肥連合軍により国は滅亡、家族は自害。

「嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず」。想像を絶する苦難の日々。

国を繁栄させるものは、経済、国防、価値感と言う。

ならば、組織を繁栄に導くものは何だろう。

損得という利だけを優先した日本社会。

私たちが失ったものとは、自尊心や高潔さという価値観ではないでしょうか。

そういう、事物を超えた精神的なものではないでしょうか。

この文章を忘れたくなくて、朱筆を引いた。

「野田豁道の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を看るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず、常に温顔を綻ばすのみなり」。

人を見守り温かく育てていく。

そういう成熟した社会でありたい。


2019年11月29日

「地域医療と清川町民の気概」

 清川診療所開設から現在まで、医師のようなコンタクトは出来なかったが、自分なりに感じ今どんな思いでいるかを率直に文章に記したいと思う。

 日本近代登山の父と謳われた英国人の宣教師ウォルター・ウェストンは、明治23年11月6日、緑深き祖母山の頂に立った。東に急峻な傾山、西になだらかな久住山や阿蘇の山々が見えた。彼はそこを始まりとして、中部地方の山々に赴き、日本アルプスと名付け、世界にその素晴らしさを伝えた。傾山や祖母山の麓に位置する豊後大野市や竹田市、清川町もその山々を水源として、美しい森や川を形作り、住民は夏は青く透明な水の流れに戯れ、冬は白い頂を仰ぎ見るのである。川や田畑に沿った大小の道路は縦横無尽に走り、迷路のようであるが、良質な土壌から産出される野菜は、高原野菜として人気が高い。私は好んで清川の高原道路を走行する。それは晴れた日の傾山を間近に見たいためであり、かつて旅した信州安曇野からの穂高の山々を思い出したいからかもしれない。

 社会医療法人関愛会清川診療所は、清川町の中心に位置し、へき地診療所として機能している。診療所の歴史は、36年前に遡る。無医村となって以来、各所に要望・陳情の末にやっと目処が立ち、昭和58年6月、自治医科大学より竹田津文俊医師が初代所長として着任し、商工会での仮診療が始まった。同年10月、現在の診療所が完成した。盛大な式典が催され、当法人会長長松宜哉医師、二代目所長佐藤隆美医師(現アメリカ・フィラデルフィア、トーマス・ジェファーソン医科大学教授)も出席した。その頃の診療所の患者の年齢層は60歳以上が大半であり、疾病は農村に特徴的なものが多かった。外来患者数は毎日30人を超えていた。やがて診療所は紆余曲折を経ることになる。診療所は町内唯一の医療拠点として認識しながらも、医師の確保が困難な状況や赤字補填の繰出金により、市財政の大きな負担となっている状況を鑑み、一旦廃止のうえで民間移譲という形の公募となったのである。

 県内で最初のへき地診療所である清川診療所は、自治医科大学卒業医師にとって、ある種の聖地であった。長松会長はそこで何度も診療し、増永理事長は若き研修時代を過ごし、多くの医師がそこに集い語らいを持った。ひとり一人の町民の顔が浮かび、使命感と不安が渾然となった。確かに心情は清川にあった。公募という手続きを経て、平成23年5月、現在の坪山明寛医師を迎えた。坪山医師は、県立三重病院長、豊後大野市民病院長を務めた方である。やがて診療所の患者数は少しずつ増えていったが、収支に見合うだけの患者数ではなかった。医療支援だけではなく、介護支援をおこなうためのリハビリテーションセンターもみの木を同年11月に開設した。デイケアの利用者数は少しずつ確実に増えていったが、診療所の患者数は人口と同様に減少していった。開院して8年が過ぎ、法人理事会も看過できない数字となり、診療所を廃止し、三重への統合という方針を打ち出した。自治会、住民、多くの方々との話し合いを重ねたが、住民の方々からの要望を踏まえ、法人としての結論を来年に持ち越すことになった。

 さて、遠回りの話から入っていこう。私が高校生のとき、担任のS先生が「旅に出るときに一冊の本を持っていくとしたら何を持っていくか?」と聞いた。S先生は、「僕は聖書を持っていく」と言った。そのときなんとなくいいなと思ったことを記憶している。時々蔵書の中から引っ張り出して、新約聖書を読んだりするが、通して読んだことは一度もない。そんな退屈なものに違いないが、宗教は人間や国家、経済活動を底辺から支えるものに違いないと思うのだ。

 イエス・キリストの布教活動、それは死に匹敵するほどの苦難であったという。イスラエルの地は砂漠に囲まれている。エルサレムからガリラヤ湖までの距離は約170キロで、途中には広い砂漠が横たわっている。緑は無く、自然に頼るものは無く、自分の判断しか頼るものの無い地域である。そういう風土から生まれる宗教は唯一神、絶対神であるという。ユダヤ教、イスラム教然りである。信じた者は救われ、信じない者は死を意味する。日本はどうだろうか。八百万に代表される多くの神々、山に森に多くの神々を祭祀する多神教である。それは紛れもなく日本の豊かさを意味し、安全と水のコストは無料なのである。豊かな自然の中で、絶対的決断は不必要で、曖昧が正当であるのは自然な流れだった。ただ、なゐふる(地震)や野分(台風)は大自然への畏怖の気持ちや人格を規定した。宗教と自然観は密接である。仏教では、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と言うが、日本人の無常観と合致している。永遠なるものは無く、形あるものは滅び、人は生きて必ず死ぬ。今、この刹那を生き切ることが重要だと説くのである。それは平家物語の冒頭のように、もののあわれを感じる代表的日本人なのである。だから、災害時における日本人の柔和な表情は、外国人の嘆きともつかぬ悲嘆の表情と違い、苦しみを穏やかに受容するものと思えるのだ。自然を教師とした科学者寺田寅彦はこう述べている。「科学の法則とは畢竟『自然の記憶の覚え書き』である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである」。日本人は仏教を受容し、西欧は他の宗教を受容しなかった。それは日本人の底に流れる無常観と関係するのではないだろうか。

 このように西欧と日本社会は全く異なっている。個という概念もまた、西欧のそれと日本の教育におけるそれとは少し違っているのではないかと思う。日本において個は平均化であり、西欧では個の自立化であるように感じる。しかし、自立であるにしても、そこにはコミュニケーション手段としての妥協が隠されている。それはどういうことかと言うと、戯曲に象徴される授業である。戯曲という文化は日本では馴染みの薄いものだが、西欧では文化や教材としても重要度が高い。ギリシャ悲劇からシェイクスピア、そしてミュージカルなどの現代につながっている。素晴らしいのは、会話の表現力としての語彙の巧みさである。大袈裟な言葉だと思うのはしばしばだが、修辞法を駆使した文彩は感動を呼ぶ。戯曲の中の言葉は生きた会話として成立しており、演説の巧みさはそこから昇華していったものかもしれない。戯曲家の平田オリザさんは、演劇はコミュニケーションを図る最高のツールだと言う。先進国のなかで、小中学校に演劇の授業が無いのは日本だけだそうで、国立大学に演劇科が無いのも日本だけということだ。欧米の感覚では、演劇が授業の一環であるというのは当たり前と言う。何故演劇が重要か。感じ方は人それぞれでいいのである。ただ集団のなかで生きていくには、一定の時間に意見を出し合いながら、統一した意見を出さなければいけない。その中には、好きな人間もいればイヤな人間もいるかもしれない。しかし、それでも四苦八苦しながら演劇という一定の時間内に、結論を出すという訓練を繰り返す。世界は多文化共生だから、その中でどうにかうまくやっていく能力を養う。彼らは、その重要なツールが演劇だと位置づけるのである。個と集団との関係は密接であるが、付かず離れずの関係でもある。日本では万葉集で、ひとりであること、孤独であることを大伴家持がこのように詠んでいる。「うらうらに照れる春日にひばりあがりこころ悲しもひとりしおもへば」。現代では、俵万智の歌がうまく世相を表現している。「愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人」。一人であること、大人になること、自立すること、それらを考え合わせると、どちらとも付かない日本人像が浮かび上がってくる。

 個という概念の違いは、先に述べた宗教観の違いでもある。前期資本主義社会は、モラルの無い原始商業経済とも言う。イギリスの古典派トマス・ホッブズは、「人間は人間に対して狼である。人間の自然状態は戦争である」と定義した。つまり、私欲の部分が存在すると説いた。しかしそうではなく、労働は宗教的儀式であり、神聖視されなければならないと言ったのがドイツのマックス・ウェーバーだった。それから130年前の日本はどうだったのか。豊後の国の三浦梅園は、そのように考えなかった。分かち合いの経済(経世済民)を説き、豊かさは民が豊かになること、個としての仁恕の心を養うことを説いた。だまされる罪を説く西欧とだますことの罪を説く日本は、このように根本的に違っている。確かに疑うことによって科学は発達し、文明を築き上げてきた。しかし、事象としてのそれと人間関係におけるそれは違う。疑い続ける人たちは、集団や組織を形成出来なかった。だから契約の名の下で健全な国家を作った。日本では先ず人間は信頼すべき対象として存在し、それ以上のものをどう作っていくかを考えていく。仲間や組織、集団に忠実でありたいと願うことが美徳となり、村や町に堅実なコミニュティを形成した。しかし、明治以後の急速な近代化によって、個と集団という二重構造が出来てしまった。集団主義という倫理観は消えていったのである。

 古来の日本においては、生と死だけだったが、今はそこに老いと病気が入り、費用や多くの問題が表出してきた。死生観が失せたことによる生への不安、忘れられた無常観、長寿への渇望。世界の動きを考えるにつけ、どこか偏向的で平安から遠ざかっている気がしてならない。私が清川町の方々と接して感じるのは、戦後の代表的日本人にはない、ある種の気高さ、質の高さ、誇るに足るような日本人である気がしたのである。伝統的な集団意識における規律正しさ、公的なものに甘んじない決意、知らないうちに父祖たちから伝承された大切な優しさみたいなものを感じ取るのである。清川の人たちは勇気があると思う。まともな地域社会にしようとする当たり前の静かな覚悟を持っている。私は彼らの行動に純粋さ、高貴さを感じる。ノブレス・オブリージュ。人間は自己を律する規範を持たねばならない。自分たちの弱さを許してはならない。それはかつての忘れられた日本人の姿そのものだと思った。


2019年11月13日

「茶の湯の宇宙」 小堀宗実

20代の頃、茶室の材料に興味をもった。

作法を習うには、少し物足りなさを感じた。

茶道の言葉も好きになった。

日本人の英知や心、なかんずくもてなしの真髄を知った。

次女の披露宴のスピーチで、大好きな「利休七則」を読んだ。

これは誰もが分かっていることを、自然に行えることの奥深さを説くと同時に、知識として知っていることと、それが実践できることとはまったく違うのだという教えです。

ごく当たり前のことが当たり前のようにできる人でありたい。難しいからこそ、七則をふとつぶやいてしまいます。


2019年11月11日

〜見果てぬ夢〜

「死を生きた人びと」 小堀鷗一郎。

B医師より紹介された。

NHKスペシャルで放送され、そのあとで「人生をしまう時間(とき)」という映画となった。

名前を見て、もしかしてと思われた方もいると思うが、小堀先生の母方の祖父は森鴎外である。

こういう本を読むと、死について考え込み襟を正すこととなる。

死を考えることは、今の生き方を見直すきっかけとなる。

明治11年、葉月つごもりの頃、イザベラ・バードは蝦夷地にいた。

「日本奥地紀行」には、アイヌの生活を知り彼らの精神文化を賛美する記述がある。

そこにはキリスト教の善や悪、罪や罰の概念さえない。

あるのは命と心だけで、人々はその豊かな情念と本性のままに、命を紡いできた。

その時代の日本の介護は、生活の中に溶け込んでいたという。

介護期間は長くて半年だったそうで、あとはどうしていたのだろうか。

本書のなかに民俗学の観点から介護を考える六車由実氏の実践があり、老人から話を聞くことを勧める。

貝原益軒の「養生訓」にも、「年老いては、さびしきをきらふ。子たる者、時々侍べり、古今の事、しづかに物がたりして、親の心をなぐさむべし。」と記している。

かつての日本には、そういう癒やしの土壌が連綿と受け継がれ、高徳の心が大切にされてきた。

しかし社会制度の変化とともに、人々の意識も変わった。

死は忌むべきものではなく、身近なものであり、神聖なものととして捉えることが薄れてきた。

何十年もデフレが続く日本は、貧困が悲惨を生む。

資本主義は富をもたらしたが、それは富の偏重となり平等さを欠くこととなった。

利が政事を凌駕し、支配と隷属の関係は、歴史上の既定事実である。

とりあえずの調和ではなく、慄然としたなかにも厳かな温もりを感じたいものだ。

自分は最近肉親の死に立ち会った。

話すことも出来ず、苦しむ状況が数ヶ月続いた。

もう逝かせてあげたかったが、どうすることもできず時間だけが経過した。

それは後悔ともつかぬ逡巡であった。

<読書メモ>

・「当時の彼はあまりにも若すぎて、記憶は悪い思い出を消し去って、いい思い出だけをより美しく飾りたてるものであり、その詐術のおかげで人は過去に耐えることができるのだということが分かっていなかった。」(ガブリエル・ガルシア・マルケス「コレラの時代の愛」) 

・ヒポクラテスの誓い

・治癒しない疾患に対して医術を施すことへの戒め。

医師は、医療以外の何を患者になすべきかを考えるときであろう。

・高齢者に何が必要なのか、高齢者の尊厳を尊重するにはどうしたら良いかについて謙虚に考えないで、自分が良いと思い込んだらそれを一途に押し付けている若者のほうがボケに近いと感じました。(寮隆吉「老人保健施設長の1年間」)

・老人らしく老いることとはどういうあり方だろうか。

森鴎外の文章を引用、下記のような感想を書いている。

「鴎外がここに描いた老年の日々は、彼が望んで得られなかった”見果てぬ夢”であると同時に、死を怖れず、死にあこがれず向かいつつある生涯の残余そのものと言えよう。」 ・誰しも年をとる。であれば、誰もが要介護状態になりうるのである。介護される側になるというのは決して特殊で特別なことではなく、人間にとっては誰しもが迎える普遍的なことであり、自分もそうなるのだ。そういった想像力が、介護を問題化するのではなく、介護を引き受けていく社会へと日本社会を成熟させていくための必要条件だと思えるのだ。(六車由実「驚きの介護民俗学」)

・最大の問題は、しばしば介護の苦難が家庭内の弱者にしわ寄せされるという現実である。収入のない専業主婦、未婚で無職の女性、みずから老衰に苦しむ老老介護の配偶者といった人々が、周囲の暗黙の強制によって介護を押しつけられる例が多い。

・話し相手がいない。

・亡くなった方を死亡診断するのは、そこでお金がついたからうちでする、お金がつかないからどこでする、そういう話ではないと私は思います。

・在宅死は理想的な異死か。入院死か在宅死かの選択は、その患者とその家族にとって望ましいかどうかの総合判断で決定されるべきである。死は「普遍的」という言葉が介入する余地のない世界である。

・がん告知における、欧米の自立性と日本の伝統的な他律性、特に家族による決定を基盤とした意志決定モデルが見られる。

・なんとなくぼかしてしまう日本的風土、何も解決策のないまま時間だけが進行し、いつまで経っても決定できないまま雲散霧消となる。

・両親の死を常に自分の目の届く範囲において見守りたいという気持ちは、現代社会において最も普遍的な価値観である。

・ヨーロッパに比べて日本の在宅死の低さは、死に対する価値観の違いかもしれない。

・在宅医療の主役は医師ではない。医師は病態を判断し、指示し、責任を取る。医師は病気を治すことを最優先にしますが、看護師は、治す、いたわる、癒やすという3つの支え方が得意です。

・ファーマーが述べている悲惨は「物質的な貧しさによる悲惨」では言い尽くせない。彼は「構造的暴力」と呼んでいるが、あえて表現するならば「社会正義の『欠落』による悲惨」だろう。

・緩和ケアの定義を基にした世界40ヶ国の「死の質」のランク付けによれば、日本は20位以下であった。「悲惨」は「生かす医療」が世界第2位、「死なせる医療」が20位以下に低迷する国にしか存在しない種類の「悲惨」、物質的には豊かであるにもかかわらず、死を忌むべき敗北とみなすことから起きる悲惨と言える。

・家族が在宅死を受け入れるに至る過程で最も重要なのは、担当医師と家族との間に築かれる信頼関係である。この信頼関係は、身内が死期を間近に控えて動転する家族と医師が何回も顔を合わせて色々な悩みや心配について話し合うことから生まれる。

・老医師の書簡は私にさまざまなことを語りかける。最も個人的で千差万別、自然・必然で秘めやかであるべき人間の死を他職種の医療・介護の専門家が「カンファレンス」し、死に方を「調整」し「標準化」することこそ、恥ずべきことではないか、という思いを禁じ得ないからである。

・本書が「日々の切れはしから成る生きた物語」をなりえたかは読者の判断に委ねるが、一人でも多くの読者が「誰もが老いる」ことを理解し、「死ぬ」ことを受け入れ、自分にとって、家族にとって、そして社会にとって「望ましい死」とは何かを考える機会となれば、著者にとって望外の喜びである。

・「死を怖れず、死にあこがれずに」誰にもとどめることができない流れに流されてゆく患者と、その一人一人に心を寄せつつ最後の日々をともにすごす医師、そのような患者と医師の関係があってもよいのではないか。それは私の見果てぬ夢でもある。


2019年10月9日

「日本思想史新論」 中野剛志 

この本は、四人の思想家を書いている。伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎、福沢諭吉。私が凄い人だと思ったのは、会沢正志斎である。

会沢正志斎とは何者か。江戸時代後期の水戸藩の重臣であり、藤田東湖とともに尊皇攘夷論を唱えた人物である。

正志斎の著した「新論」は、ペリー来航の25年も前に書かれている。攘夷だから、大東亜戦争当時は盛んに読まれ鼓舞されたようだ。しかし、敗戦による検閲や洗脳のなかで、いつか埋もれてしまい、見向きもされない状況になっている。

江戸幕府はペリーが来る一年前から、四隻の蒸気船が来るのを知っていた。開港場所からもたらされる情報を幕府は持っていたが、それに対して何もできなかった。

幕末の日本は、清国の滅亡の知らせがもたらされ、国家の危機に直面していた。尊王攘夷論者は、国難に対峙する中で、何を考えていたか。攘夷と言うと過激思想に映る訳だが、それは一部を拡大化した戦後教育の偏向性ではなかったか。教科書的な見方はやめて、事実を丁寧に積み上げた歴史の蓄積と客観性にこそ、真の学びがある筈だ。

会沢正志斎や藤田東湖らに指導された水戸学の尊王攘夷論は、無分別な国粋主義や排外主義などではなく、理性と論理を兼備したものだった。排外主義的な劣情や恐怖心に訴えるのではなく、想定される反対論を列記して、それを論理的に反駁してみせ、自らの攘夷論の説得力を強化しようとしており、極めて知的な議論の展開であった。

ロシア人が近海に現れて日本との交易を図っているのは、食料としての米穀を求めているに過ぎないという見解がある。しかし正志斎は、ロシア人は米を常食とせず、たとえ必要でもすでに西洋が領有したインドや南海で入手可能な筈。彼らの目的は他にあるに違いないと反論を加える。

次に、日本近海に出没する船は、漁船や商船に過ぎないのであり、捕鯨や交易が目的だというが、これについては、鯨であれば、ロシアに近いグリーンランド近辺の海でも採れると聞いている。それがなぜ、極東に来る必要があるのか、と地理的事実を挙げつつ批判し、西洋の船舶はいつでも戦艦に代わる仕組みであることを指摘して警戒を促すとともに、西洋人が日本近海を周知するのは軍事的に危険であると主張した。驚いたのは、グリーンランドの周辺で捕鯨が行われていたことを知っており、それを根拠に、自分の論理を組み立てているということで、当時これだけの情報と世界的視点を持つことは驚くべきことだと思う。

また、西洋には恩をもって手なずければよいではないか、脅して怒りを買うのは危険であるという事なかれ主義の意見があるが、それに対しても、西洋の世界支配の意志は、数百年の昔から固まっているのだと一蹴する。

そして、日本は神国であり、兵は精鋭であるので、夷狄など恐れるに足りないという勇ましい意見に対しては、二百年も実戦経験がない兵など、使いものにはならないと嘲笑し、戦艦の製造など抜本的な軍事力増強の必要性を強調した。

正志斎の尊皇攘夷論は、無謀な攘夷戦争に突入した長州藩の尊皇攘夷論とはまったく異なり、「敵を知り、己を知る」という軍事的現実主義に立脚したものだった。

「新論」には、現代の日本人に期待できないような、卓越した戦略眼、高度な国際感覚、そして知的な戦争術が現れてくると筆者は書いている。

その当時の評価はどうだったのだろうか。豊後国日田出身の幕府勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)は「新論」を読んで、「此人軍機もあり、才もあり、眼もあり、漢土日本より外国のことまで知りたる人なり、よほどの人物なるべし・・・誰にや、筆者きゝたき事也」という記録があり、会いたくてたまらなかったようだ。

正志斎の思想はどのように形成されていったのか。彼は、水戸学派の中でも特に伊藤仁斎や荻生徂徠の影響を強く受けていた。攘夷論の底流には、古学があると考えられ、朱子学の対極としての古義学を簡単に記述してみる。

伊藤仁斎が創始した古義学とは、学問の方法からして朱子学とは根本的に異なる思想だった。朱子学の合理主義を拒否し、徹底的に日常経験を重視した実践的な学問だった。仁斎は、そのプラグマティズムによって、人間が社会的存在であり、そして社会は動的な「活き物」であるという認識に達した。その人間観と社会観に基づき、「仁」と「義」に基づく実践的な政治思想を論じた。「義」を欠落させた「仁」が、現実から乖離した空論の博愛主義に堕することを懸念していた。

仁斎は「仁義」を核とした政治を唱え、「国のため」と「民のため」とが一致した統治を理想としたが、それは「国民」の創出につながりうる政治思想だった。この仁斎のプラグマティズムとナショナリズムが、後の水戸学の尊皇攘夷論へとつながっていった。

新渡戸稲造の「武士道」は言うに及ばず、仁斎は、学問とは、書物に頼った論を垂れることではなく、知行合一の実践道徳であると言う。抽象的論理を推し進めることではなく、現実社会の中で実践経験を積むことを通じて、人間や社会の現実を体得することであり、その社会の変遷を記録したのが歴史であり、歴史を学ぶことは、人間や社会の現実を把握するということであり、それこそが真の学問であると説く。人間や社会は絶えず変化する「活き物」であれば、それを捉えるのは実践経験であり、究極的には歴史を学ぶことなのだ。

更に驚いたのは、伊藤仁斎は京都の一町民であり、それまでの朱子学の変容を廃し、原典を丁寧に解釈し、日常的な視点に戻していったのである。江戸時代の人々の独創的な思考と拡がりを知るにつけ、ただ驚くばかりである。

この四人に共通しているのはプラグマティズム、実学を提唱し実践した人たちである。私が心惹かれるのは、目の前で起きていることをとことん考え抜き、国と民を思う人たちがたくさんいたことである。

私たちは、中身を見ずに名前や外観だけで判断していることがある。そう断定するのではなく、現場を直視し、何ものにも縛られない自由な発想と強い意志を、正志斎や江戸時代の市井の人々から学ぶのである。


2019年9月22日

「男としての人生」 木村久邇典

開高健は枕元に二冊の書物を置いた。

旧約聖書と小倉百人一首を読みながら陶酔の淵に眠った。

小室直樹の本には、さまざまな色彩で線が引かれていた。

一回目が赤、二回目が黄色、三回目が青で、線を引く場所がなくなったら、新しい本を買った。

いい本だと思ったら、最低でも十回読みなさいと言った。

高倉健は会津八一の短歌を愛した。

木村久邇典の書いた「男としての人生」を絶えず携行し、行間には赤い線が引かれていた。

この本を読むまで何年かかっただろう。

復刊に感謝します。


2019年8月11日

「6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む」 

 ジャン・ポール・ディディエローラン

外国の小説を読む度に少しだけ後悔することがある。

それは、登場人物の名前を覚えることが苦手で、メモしないと物語がちぐはぐになってしまい頓挫しそうになるからである。

今回も途中で分からなくなったが、気にせずに読み進めていくと、後段になって分かってきた。

フランスの小説を読むのは、スタンダールやローラン、ニザンやサガンくらいしか思い浮かばない。

時には文化の違った現代小説を読みたいと思った訳だが、我が意を得たものがあった。

以前より朗読に興味を持っていたので、主人公が電車の中で朗読をする姿や、それに聞き入る乗客が楽しんでいる情景に羨望を覚えた。

気に入った詩や文章の一節を妻に聞いてもらうことが何度かあるが、もう少し二人だけの文学的な時間を持ちたいと思った。

作中の人物が戯曲を読む場面があった。

戯曲という文化も日本では馴染みの薄いものだが、外国でのそれは文化として教材としても重要度が高い。

ギリシャ悲劇から、シェイクスピア、そしてミュージカルなどの現代につながっている。

戯曲で素晴らしいと思うのは、会話の表現力としての語彙の巧みさである。

大袈裟な言葉だと思うのはしばしばだが、修辞法を駆使した文彩は映画などでも感動を呼ぶ。

戯曲の中の言葉は生きた会話として成立しており、演説の巧みさはそうやって昇華していったものかもしれない。

戯曲家の平田オリザさんは、演劇はコミュニケーションを図る最高のツールだと言う。

先進国のなかで、小中学校に演劇の授業が無いのは日本だけだそうで、国立大学に演劇科が無いのも日本だけということだ。

欧米の感覚では、演劇は授業の一環であるというのは至極当たり前と言う。

何故演劇が重要か。

感じ方は人それぞれでいい。

ただ集団のなかで生きて行くには、一定の時間に意見を出し合いながら、統一した意見を出さなければいけない。

その中には、好きな人間もいればイヤな人間もいるかもしれない。

しかし、それでも四苦八苦しながら演劇という一定の時間内に、結論を出すという訓練を繰り返す。

世界は多文化共生だから、その中でどうにかうまくやっていく能力を養うのだ。

彼らは、その重要なツールが演劇だと位置づけている。

さて、物語の感想をどう書けばいいのだろう。

自分には普通であることでも、第三者にはそう思えないこともある。

正常さのなかの奇妙で静かな日常が、ひとつのメモリースティックによってときめきに変わる。

人生の抑揚の爽やかさとでも言おうか、時には我知らず踏み外したりすることが抗いのようでもあり、人生のスパイスとなる。

そしてまた、人生は普通の生活に戻っていく。


2019年7月25日

「西洋の自死」

リベラリズムの衰退は、すぐに日本にやってくるのだろうか。

なぜなら私たちの知らぬ間に、日本は世界第4位の移民大国となったからである。

この本を読めば欧州リベラリズム国家の複雑な心理、つまり本音と建て前の屈折した心理や、かつての帝国主義の罪悪感からくる差別主義の隠微が見え隠れする。

これは欧州人だけではなくアメリカにも存在すると思うが、隠れ蓑としての日本の戦争犯罪の喧伝は西洋のそれとは雲泥の差かもしれない。

さて、この本を出汁にして、私は「センメルヴェイスの悲劇」を記録しておきたいと思ったのだ。

先日、ステファニー・ケルトン教授が来日した。中野剛志氏や藤井聡教授たちが中心となって招聘したようだが、49歳の金髪美人なので一気に心を奪われてしまった。

そんな折りに、MMT(現代貨幣理論)に希望を見いだしたとAさんから連絡をもらい、MMTの詳細を調べていたら、センメルヴェイスを知ることとなった。

先ず彼の概略を書いておこう。

1800年代初めのハンガリー人の医師である。

オーストリアのウィーンの病院で勤務をしていたが、助産婦と医師が行う分娩の産褥熱の発生率が10倍も違うことに疑問を抱いた。

この原因を調べようと、友人の法医学者が産褥熱で死亡した検体解剖を学生に指導しながら行っていた際に誤ってメスで指を切創し、そのまま解剖を行った後日、産褥熱と似た症状で死亡した。

彼は死体の破片が医師の手に付着していることが死因であるとし、それが臭いであると考え、塩素水で手を洗うことで臭いを取り除き、結果産褥熱による死亡者は激減した。

そして塩素水による消毒が産褥熱を激減させることを啓蒙しようと多くの病院を回るが、些か強要や脅しに近いものであったため同業者は門前払いし、彼を危険人物扱いにした。

彼を精神病院に入れようと呼び出した際に、異変に気づき逃げようとしたが、施設の職員から殴打を受け、その時の負傷が元で施設で死亡した。

センメルヴェイスの説が受け入れられなかった最大の理由は、患者を殺していたのは医師の手であったという、医師にとっては受け入れがたい結論にあったと言う。

後年パスツールは、センメルヴェイスが消し去ろうとしていた殺し屋とは連鎖球菌であると発表した。(Wikipediaより要約)

これらの事例から、通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向、常識から説明できない事実を受け入れがたい傾向のことを「センメルヴェイス反射」と言う。

私たちは間違ったことをなかなか修正できないような身体の仕組みになっているようだ。

それは集団行動が子孫の継続につながるものであり、多数であることは精神的な負荷がかかるものではなく、いわば脳に焼き付けられた本能だということだ。

天動説が主流であった時代に、コペルニクスは地動説を唱えた。ガリレオは彼を以前からあった仮説を復活させて確認した人と言ったそうだが、仮に誰もが分かっていることでも改めて発言するのは確信と覚悟のいることだと思う。

アップルの以前のキャッチコピーで「Think different!」というものがあった。

考え方を変えることは、視点を変えることでもあり、違った見方ができるようになる。オズボーンのチェックリストを持ち出すまでもなく、視点を変えることが必要なのだ。

目から鱗の発想はそうそう簡単ではないが、では何から始めるかと考えあぐねてみると、やはり疑うことしかできないのかと思う。いやいや待てよ、それは人為的過ぎやしないか。

ルソーは自然回帰を唱えたようだが、その意味するものは常識や慣習を疑うことにあったという。浅学の身ながらそのことに付け加えたいのは、「花は野にあるように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく、冬は暖かに、刻限は早めに、降らずとも雨の用意を、相客に心せよ」という茶道の真髄であり、無為自然という、足し算も引き算もない概念である。

 結局どうなんだと言われそうだが、ひとまずの結論を書いておこう。無為自然と言うなら、思い込みを外に置き、事実のみを検証しながら積み重ねていくしかないと思うわけである。

歴史は繰り返すというが、その心はと問えば、世代の繰り返しだと思うのだ。間違いを繰り返しながら文明や文化は進化を続けるが、過ちは何度も繰り返されていく。

人間とはそうしたものかもしれないが、心のどこかに父祖たちが考えたこと以上のものを獲得したいと思うことが、儚い夢だと断定するのは余りに寂しい。

MMTは上限域を把握できれば国民の幸せにつながるものだと思うし、かといって現在の権威は総論に異を唱えている。

私たちは大きな錯覚と誤謬の世界にいるのではないか。真に透徹した第三者的視点が必要なのかもしれないが、やはり凡人はここで打ち切ることにしよう。


2019年7月13日

「旅をする木」 星野道夫

"フェアバンクスは新緑の季節も終わり、初夏が近づいています。

夕暮れの頃、枯れ枝を集め、家の前で焚き火をしていると、アカリスの声があちこちから聞こえてきます。残雪が消えた森のカーペットにはコロコロとしたムースの冬の糞が落ちていて、一体あんな大きな生き物がいつ家の近くを通り過ぎていったのだろうと思います。

頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。

アラスカに暮らし始めて十五年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化していくこの土地の季節感が好きです。

人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。" 〜新しい旅より〜

部屋の外は大粒の雨が降っています。

おかしなもので、雨音のリズムは妙に心を落ち着かせ、文章の区切りのたびに顔を上げて遠くを見つめます。

久住の大自然のなかで、星野道夫を読む喜びをかみ締めています。


2019年7月4日

「子ども食堂」

 貧困家庭や孤食の子どもに、無料あるいは低料金の食事を差し上げる場所のことです。以前より、S学級の子ども食堂を気にかけていましたが、代表者のネットワークを通じて、近くの大学との連携が始まり、大学生による授業、学生自身の学び、子どもと親の進学への夢、そういった一縷の希望が出て来たようで嬉しく感じています。従来の子ども食堂は単に空腹の思いをしている子どもに食べさせる場所でしたが、S学級はこれに希望の溢れる学習を付加したわけです。

  S学級を運営するFさんは、いつも楽しいお話をされる方で、一見遊び人風と思えますが、実は細かい神経を持った思いやりの深い方であると思っています。そのような方だからこそ今の発展した会社となり、そして今やっている社会事業の素晴らしさを賞賛する訳です。私財を投じて貧困の子どもたちを助ける。口で言うことは簡単ですが、実行者は殆どいません。それを少しずつ努力を重ねてきて今は8つの食堂を運営しています。もちろん自分の財力もあるでしょうが、それを惜しまず、事業に賛同する協力者をますます増やしています。人に恵みを与える。これは素晴らしいことで、これほど崇高なことはありません。

  競争に勝ったり、自己目標を達成したり、それは確かに大きな組織にとって大切なことではありますが、人間はそれだけで満足するものではないと思います。組織や社会を形成するシステムを作り上げるのは素晴らしいことですが、それを支え命を吹き込むのは人間です。長い歴史を見渡しても、その中心に存在するのは、やはり人間なんだと思います。優しいコミュニティを作るにはもちろんシステムも必要ですが、次に大切なものは人の共感だろうと思います。

  社会学者の宮台真司氏は「日本の難点」の中で、現代社会を評して「社会の底が抜けている」という表現をしています。厳しい競争社会になっていくと、利他意識が遠のき、自分や家族を守らなければという一途な意識に陥りがちですし、人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというような閉塞的な状況に陥っていくように思います。医療や介護で大切なことはそのような対立的構造を作ることではなく、最もシンプルな共感や同情を持つことだと思います。競争することと分け与えることは相反しているように見えます。しかし、そこに共感という概念を持ち込むことで、少しは豊かなコミュニティが出来る気がします。競争だけではとげとげしく、それは人の温かい心が介在しないからだと思います。ケインズの師であるアルフレッド・マーシャルは、ケンブリッジ大学の就任時の講演でこう語りました。「”Cool head, but warm heart” 冷静な頭脳と温かい心を持ち、周囲の社会的苦難と格闘するために、進んで持てる最良の力を傾けようとする・・・(中略)・・・そのような人材が増えるよう最善を尽くしたい」と。

  私は20代の頃から交通遺児の施設に毎月少額の寄付金を送ってきました。特に高給取りでもありませんが、妻は簡単にいいよと言ってくれたことに本当に感謝しています。何故寄付をするか、特に理由があったわけではなく、不自由のない幸せな生活を送ってきたことへの感謝の気持ちからかもしれません。このような施設にとって一番欲しいものはお金であり、現物の米や食料品を受け取ることはありません。その施設は無くなってしまいましたが、数年前に知人から頼まれて、あるネットワークの支援を行っています。また、当法人のいくつかの施設にもお願いして支援してもらっています。子ども食堂に手を差し伸べるか否かという問いは、たぶん自分の感覚からすれば慣れていないということです。もちろん欧米との文化や宗教の違いということもあると思いますが、情緒的な感覚ではなく、現実的な問題において根底に据えるものとして、相互依存や役割分担という意識を持たなければいけないのではと思います。そして、最も頼りになるのがお金です。お金は、社会をより良く作るための重要なツールになります。

 子ども食堂は事業の継続ができるかどうかなど、多くの問題を抱えていますが、日本人は世界のどの国よりも共感出来る国民です。子ども食堂というネットワークを盛り上げて、子どもたちの未来が少しでも明るい方向に向かうことを願ってやみません。


2019年7月1日

「希望とは自分が変わること」養老孟司著

先日、帰郷して近くの医療法人に就職した大学の先輩が畏れ多くもご挨拶に来られた。10歳上の大先輩だが、風貌の若さはそういうことかと納得した。Gさんは近頃ケアマネジャーの資格を取られ、認定員として豊かな経験を活かしていたのだ。ちょうど標題の本を読み始めた頃で、Gさんの飾らない姿勢から、学ぶということ、挑戦すること、何かしら羨望のような言い知れぬ刺戟をいただいた。

ガンジーの言葉に、”Be the change”という教えがある。その意味は、あなたが起こそうと思っているその変化に、あなた自身がなりなさいということだ。世の中を変えるなんて土台無理があり、歴史を振り返っても偶然の産物としか思えないことが殆どだ。大東亜戦争の真実を知れば、どこに正義があったかすぐに分かることだ。まあ、自分も息が詰まるので正義を振りかざしたくないし、寧ろ慈悲が大切だと考えているクチだ。

同じ頃に小学校の先生と話す機会があり、子どもの出生数や東京の児童数などを教えてもらったが、想像以上に少なくなっているし、東京集中は免れない。人口減少や教育状況を嘆いておられたが、とどのつまりは私たち一人ひとりが変わっていきましょうと言うしかない。変なオヤジが既得権益を追っ払っているが、現在の世界経済は破綻に近づきつつある状態ではないか、そんな気さえする。ただ誤魔化しながら時が過ぎようとしているし、私たちはこれらの遺産を次の世代に託そうとしているのである。格差云々を嘆く前に、資本主義とは必然的にそういう構造となっているということだ。

時々思うのだが、小さい頃から時間は有限だからと教えられて、だからもっと節約しなければいけないのかと。それが本当に人々を幸せにしてきただろうかと。アダム・スミスは「道徳感情論」の中で、個人の利己心に基づく競争とともに共感を挙げている。社会は競争だけでは成り立たず、共感が他者の目を個人の中に内面化させ、そこに常識や良心が形成され、内なる自己規制としての公正という行動規範が生まれるのだ、と述べている。

タウンゼント・ハリスの日記にはこう記している。「私たちは、幸福そうに暮らしている庶民を見て、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの国の人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。」

養老氏が書いているように、この世界をよりよく生きるために必要な通貨とは、円やドルでもなく勇気という通貨なのかもしれない。 豊かさとは人々が作り出す美しいコミュニティであり、友人たちであり、装飾のない自然だと思わないかと。

先日、メンタルヘルスやアンガーマネジメントの研修を受けた。若さを侮ってはいけないと思っているが、やはり今どきの若さは未熟なのか。それにしても、恐怖を動機としてはいけない。誰かが自分を批判したとしても、それは、その人の問題でしかない。自分は自分の確固たる内面からの声に耳を傾ければいいではないか。気にすることではない。そう、教会から追放されたマザーテレサのようにね。

私たちはひと言で地域包括ケアと呼ぶが、資本主義経済は「見えざる手」の競争の中にあり、しかし共感を是としたコミュニティを推進しなければならない。このような二律背反をホリスティックというワードでもっと掘り下げてみたい気がする。

若さを育てる。

育つとは変わることだ。

教育の本質は、その人を引き出し変えることだと思う。

それは老若を問わず、すべての人に公平だ。


2019年1月23日

「カーテンコール」 加納朋子 新潮社

僕が10代や20代の青年であったら、もっと感動していたかもしれない。ピュアな心にはほど遠く、荒みきっているのか。しかし、ところどころに鏤められた言葉があり、それなりに胸を打つ。

誰にでも、人を傷つけたり、失敗した過去がある。自分も思い出したくないような恥ずかしい反省や人を傷つけた悔悟の過去がある。

それを角田理事長はこう話す。

”大人になった今のあなたが、当時のあなたを許してやらなきゃならないんです。”

自分で自分を許す。

それぞれの女子大生が抱える問題を、角田理事長は温かい言葉で包み込んでいく。

僕はよく妻に、おまえはヒマワリのようだねと話す。

角田理事長は、落ちこぼれの学生たちの卒業式で、スピーチした。

”あなたは素晴らしい。”

これはヒマワリの花言葉。

”あなた方は素晴らしい。過酷な灼熱の太陽の下で、すっくと天を仰ぐ大輪の花のように、とてもとても素晴らしい。どうかヒマワリのように、明るい方、温かい方を目指して進んでください。”

読後感はいい。素晴らしい。

僕の心がねじ曲がっているのか、そう自問する。真正面に捉えきれない年齢と経験。

というより、好悪なんだろう。

もっとギラギラ、ギトギト。

現実はこれがいい、と思うのだが。


2019年1月22日

「甘いもの中毒」  宗田哲男 朝日選書

・脂質は食べ過ぎても全部が吸収されるわけではなく、余剰は体外に排出されます。だから太りません。それに対して糖質は、食べたら食べた分だけ全部吸収されて、余剰は脂肪となって体内に蓄えられます。だから糖質過多になると太るのです。

・私たちは、自分の体内でブドウ糖を作れるのだから、外から糖質を入れる必要がないということなのです。

・ケトン体はサプリメントが抗がん剤になるのではないでしょうか。

・M3.comのアンケートで、医師の66.5%が糖質制限に賛成或いはどちらかといえば賛成している。


2019年1月19日

「認知症は脳のメタボだった!」 白澤卓二著 宝島社

認知症関連の本で飯尾副院長より紹介があり、すぐに取り寄せて読了。

認知症は、アルツハイマー型と血管性で75%を占める。他にはレビーや混合型などがある。

最近は糖質制限が盛んだが、白澤先生も糖質と油の害を説く。糖が脳の唯一の栄養源というのは真っ赤なウソで、糖質が人類をボケさせていると言う。

油には飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸があり、飽和脂肪酸には中鎖脂肪酸と長鎖脂肪酸がある。中鎖脂肪酸がケトン体を合成し、認知症の予防・改善に役立ち、それはココナッツオイルやココナッツミルクなど。

不飽和脂肪酸は一価不飽和脂肪酸と多価不飽和脂肪酸があり、多価不飽和脂肪酸のオメガ3系脂肪酸がEPAと言われるもので、動脈硬化を抑制する。

糖尿病と認知症の密接な関係はインスリンがキーで、グルコーススパイク(食後の血糖値の急上昇)を避ける。

僕が驚いたのは、全世界の認知症介護の費用は、現在6000億ドル(約66兆円)であり、全世界の国内総生産(GDP)の約1%にあたるということだ。

もっと予防や治療の研究が必要だが、日本は経済的には先進国でありながら、医療面では後進国となっている感は否めない。

では若さを保ったり、生活習慣病の予防は何が必要か。白澤先生は、インスリンの分泌を抑えることだと言う。それは血糖値を上げないことだ。

50歳を過ぎたら糖質に頼る生活から抜け出すことが、何よりの認知症予防になる。

最近ケトン体の研究が進み、体内でケトン体が合成されているときには細胞の長寿遺伝子が活性化していることが分かってきたそうだ。

そのためにはケトン食を食べる。糖質を制限する。朝は生ジュースを飲む。質の良いタンパク質をしっかり取る。アルコールの適度な制限。おやつは糖質の少ないものを取る。

手っ取り早いのは、熱いコーヒーに中鎖脂肪酸のココナッツオイルやミルクを一日に一杯飲むことでしょうか。

今までの常識がコペルニクス的転回となり、新しい発見を受け入れるか、これまでの常識を信じ続けて否定するのかはあなた次第です、と著者は書いています。