2020年

2020年12月15日(水)
「新型コロナ雑考」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 師走の月となり、通勤の風景に青女の舞った証、霜の絨毯を見る日が多くなった。この寒さを待っていたのか、新型コロナウイルスがつむじ風のように突如暴れだした。人はマスクに祈りを込め巣ごもりに入った。
   コロナ禍やはしゃぐは枯れ葉道の駅 明寛
 冬場にコロナ旋風が吹くと予想はされていたが、ここまで強いとは・・・。静寂な奥豊後まで、足音を忍ばせて侵入してきた。
 ワクチン完成、接種始まるの情報を知り、ウイルスも死にもの狂いなのだ、生き延びようと。人は人で、長きに渡る新型コロナとの戦いに疲れ、馴れ、飽き、「withコロナ」にも身構えを緩める響きを感じ始めていた。その隙を寒さと乾燥で勢いを増したウイルスに突かれてしまった。
 ここをどう乗り超えるか、ただ怯えるだけでなく正しい予防知識を盾に、いずれ手にするワクチンと薬を鉾に真向かうしかない。新型コロナウイルス感染症は、インフルエンザやおたふく風邪と同じようにウイルスによる感染症だ。感染症収束戦略はこれまでの感染症対策と同様、感染源の隔離、感染経路(飛沫、接触)の遮断、宿主(人)の免疫力アップの3段階を確実に実行することに尽きる。
 感染源対策の患者隔離治療および免疫力強化のワクチン開発は専門家の仕事である。
 感染拡大防止の鍵は感染経路遮断であり、3密の回避、マスク着用、手指消毒が正にそれだ。感染経路遮断には、一人一人の自覚と誠実さが重要になる。例えばマスク着用に関して、診察室で気になることを良く見かける。それはマスクの表面を手で触り、その手で目を触っているのだ。マスク表面にはウイルスが付着している可能性が高く、数日は生存している。またコロナウイルスは目鼻口の粘膜から侵入する。従って着用したマスク表面を触れてはいけないし、触れたら手指を石鹸洗浄かアルコール消毒することが肝要だ。正しい知識が感染防御にはとても重要なのだ。
 また日本のような自由民主主義、人権尊重の体制下でコロナに立ち向かうには、個人の自由意志での判断と責任が求められる。密接回避策として、ソーシャル・デイスタンス確保が言われるが、この言葉の本来の意味は身体的距離ではなく、心の距離のことだ。コロナ危機を克服するには、自分が感染しないとともに他の人にも感染させないという「他者への思いやり」が、重要な鍵だと考える。コロナ禍で自死者の増加が危惧される今こそ、心の距離を縮め支え合うことが肝要と思う。
 今冬の感染増加では感染経路不明者が多く、誰もが感染者になるリスクを負っている。しかし自粛警察、誹謗中傷による被害は後を絶たない。何故なのか?社会心理学では、他者と合わせなければならないと感じることを「同調圧力」といい、感染リスクに対し同じ行動をとらない人への攻撃(自粛警察)は、この同調圧力の故である。また感染者は自業自得だと考え誹謗中傷する人がいる。この傾向が日本では他国に比し強い(日本11.5%、米国1%<大阪大学;三浦>)。自粛警察も誹謗中傷も、大きな災難を前に相手を攻撃することで自分の不安を和らげようとする、歪んだ行動であり許されない。では不条理な状況で、どう心の安寧を得ればいいのか、難しい課題だ。ここで思い出すのは、カミュの「ペスト」だ。カミュは医師リウーにこう言わせている。「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さです」ランベールが「誠実さって?」と聞くと、「私の場合は、自分の仕事を果たすことだと思っています」と答えている。私も同感です、日々の自分の役割を誠実に行い続けることが、今このコロナ禍を生きる最良の術だと思う。
 さて年末となりました。この1年、清川診療所・もみの木ともにお世話になり感謝申しあげ、皆様が佳き年を迎えられることを心から御祈念申し上げます。


2020年11月17日(火)
「ひと言を惜しまないで」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 11月を迎えると我が家の庭から花の姿が消えかかる。残っているのは少し色褪せてきたアメジスト・セージだけで寂しい庭となる。この頃に首を長くして待っている花があり、毎日通勤前に蕾の状態を確認している。 
 11月8日だった、3輪が咲き16日には12輪となった。花の名は皇帝ダリアだ。皇帝らしく我が家の軒先を超え高々と延びた3本の太い幹に、薄紫色の花が太陽の光を独り占めするかのように輝いている。
  小春日の皇帝ダリア天を抱く 明寛 この花の管理には気を遣う。どうして?心配させるからだ。心配の因は台風だ。一度ぽっきり折れたのだ。それ以来2m程の支柱を立てて、台風が近づくと幹と支柱を紐で結ぶ。今年一番心配したのは、台風10号襲来の時だ。特別警戒級で最大瞬間風速70m以上が連日報道されるので、いつもより厳重にグルグル巻きにした。朝起きて先ず見に行ったが、3本ともすっくと立っていた。「心配したぞ」と声をかけた。きっとわかると信じている。花々に水をかけながらも声をかける。ある本で植物に3つの言葉をかけて、葉の数の変化を調べる実験を読んだ。かけた言葉は「ありがとう」「ばかやろう」「なにもかけない」だ。その結果、葉の数は「ありがとう」が一番多く増え、一番少なかったのは無視された群で、葉が枯れたのは「ありがとう」では一枚もなく、無視が一番多く、「ばかやろう」はその中間だった。
 植物でさえ言葉が影響するのだから人は尚更だろう。
 診察室で悲しくなるのは、家族間で会話がない、声をかけても返事が貰えないと寂しそうな表情を見せる方達がいることだ。この事を先ほどの植物実験に当てはめると、無視の範疇になると思う。高齢者は耳が遠くなるうえに、自分の知っている範囲の話題しかないので、認知症でなくても、同じことの繰り返しが多くなりがちだ。そんな時に無視されると、植物のように生きる力を弱めるのだ。
無視は高齢者だけでなく子供の心にも小さな傷となり、続くと深手となり、よからぬことを考える。よからぬこととは「自分は生きている甲斐がない」とか「自分は必要とされていない」とかであり、死を考えがちになる。
 家族間の会話は健康や精神的安らぎに深く関わりがある。家族との会話の頻度が「ほぼ毎日」の人の健康状態は「良い」が90.1%、会話がほとんどない人の「良い」は5.2%となっている。<H30高齢社会白書>「家族との会話が十分取れている」人は、80.7%が精神的安らぎを感じているが、「家族との会話がほとんど取れていない」人は、43.3%しか安らぎを感じていない。<国民生活選好度調査2007年>
認知症と会話の関係では、認知症予防には最低一日90分の会話が必要となっている。<大分大学医学部神経内科>
 「目は口ほどに物を言う」「言わんでもわかる」は、難しいコミュニケーション手法だと思う。宗教の世界では阿吽の呼吸、以心伝心というコミュニケーションは在りうるのかもしれないが、凡人の間では難しいと思う。
 人は皆話しかけられた時、「そうだね」「それから」「おはよう」のたったひと言が、喜びと生きる力を沸き立たせてくれるのだ。
 トロイア戦争は、ゼウスが不和の神エリスを結婚式に誘うたったひと言を忘れたために10年戦争になった。ゲーテは「若きウェルテルの悩み」の中で“世のいざこざの因になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね”と指摘している。ひと言の説明、ひと言の返事が途方もなく大事なのだ。
高齢者の話しかけには、無視せずに是非「ひとこと」の返事をして欲しい。私も診察室では、どんな問いかけにも、どんな独語にも耳を傾ける姿勢をとる覚悟でいる。それも明日を生きる有効な処方箋だと思うので。


2020年10月19日(月)
「燃料は酒」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 10月2日加藤登紀子チャリティーコンサートに行った。チャリテイーの趣旨は子ども食堂応援だ。妻が地域の子ども食堂に関わっている関係での参加だ。今はコロナのため多くの子どもの参加ができず、弁当配布が主だ。コロナは子供達にも悲しみを強いている。
 コンサート会場は、感染対策で観客同士の会話もなく緊張した雰囲気だった。
 スポットライトを浴び、加藤登紀子(以後彼女とする)が真っ赤なドレスで登場し、会場には77歳の活力ある命が吹き込まれ、華やかになった。ピアノとバイオリンに誘われ語るように歌い始めた。🎶しれ~とこ~のみさきに は~まなすのさくころ・・🎶いや~懐かしい。私も思わず口ずさんだ。「知床旅情」の流行っていた頃、自分はまだ医学生だったが、いろんな意味で父親に抗い鬱々していたのを思い出し、心の中で謝罪と感謝をした。歌は「ひとり寝の子守唄」から🎶まっかなまっかなばらのうみ・・🎶「百万本のバラ」へと続いた。この歌は儚い恋の歌だが、聞きながら結婚前に妻の誕生日に歳の数だけ赤いバラを贈ったことを思い出しむず痒くなった。
 最後に「この手に抱きしめたい」が歌われた。🎶あなたの涙をこの指で拭きたい 触れてはいけない頬を抱いて・・さよならも言えず見送るなんて 神様お願い力をください・・🎶 この歌は、コロナで入院した家族に、触れることも、さよならも言えずに別れることの悲しみを込めた歌だった。また医療従事者が厳重な感染防御服を通して患者さんの応対を強いられているやるせなさにも、彼女の思いが込められていた。
 医療は寄り添い、触れ合い、語りあう姿こそ本来の姿なのに、今それができない。不幸にして亡くなっても、家族は愛する人に別れも言えず、白骨の姿でしか抱きしめることができない。コロナ禍の最も哀しさ虚しさを感じる出来事だ。この歌を聞き、彼女が不条理な今を生きる皆に、一生懸命心を寄せて共に生きて行こうという心根に感じ入った。
 彼女のツイッターに「55年の歌手生活、歌の持つ力をまっすぐに伝える歌手の使命のようなものをやっと感じる・・」とあった。アンコールに3曲も歌ってくれた。そこには息づかいの聞こえる場で歌えることが嬉しく、歌で皆に生きる力を与えたいという歌手としての使命感があったのだ。彼女のコンサートは、コロナの秋の捨てがたい思い出となった。
 ああでも人生は多難だ。いい気分は続かない。悲しみはコロナだけではなかった。通勤途上稲の異常を感じた。翌日になり見た!50㎝程の変色した円形を。そして数日で畑半分が坪枯れになった。また~今年も・・ウンカは来たのだった・・。
 診察室でも肩を落とした方がいた。「やられました、収穫は昨年の半分です・・」どう声をかけてあげればいいのか・・、悲しいですね‥としか言えなかった。その人は「来年は消毒のタイミングをしっかりやります」と帰った。学びが生きる燃料になったんだと少しほっとした。人はそれぞれ生き抜く燃料をが必要だ。加藤登紀子の燃料は歌だろう。 燃料と言えば、ある翁のTシャツに「燃料は酒」と書いてあった。いや~笑った、診察室で患者さんと看護師と私で笑った。
 マーク・トエインは「笑いは人間が持つ唯一の武器だ」と言い、11世紀のペルシアの大学者ウマル・ハイヤームは「酒を飲め、それこそ永遠の生命だ、また青春の唯一の効果(しるし)だ。花と酒、君も浮かれる春の季節に、楽しめ一瞬を、それこそ真の人生だ」(ルバイヤート、133節)と詩っている。
 そうだ!人は困難な時こそ頭の心の窓を開放し嫌気や愚痴を吐き出し、大いに笑わなきゃ、明日を楽しく生きる力が湧かないのだ。
 自分の医師としてのモットーは「一日一笑」だ。明日からも笑いの種を診察室で蒔こう。