2010年〜2014年

2014年11月1日(土) 

「たのしみの思想」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

そうだ。僕が40代の半ばを過ぎた頃だ。

遠い記憶の中で、きらりとした思い出がある。

休日に友人と二人で久住山の麓の渓流に分け入り、ヤマメを釣りに行った。

早朝の渓流を遡行しながら、きらきらと輝く緑と清澄な冷気に、学生時代の北アルプスの思い出が重なった。

渓流釣りはあまり上手ではなく、友人の半分くらいしか釣ることができなかったが、子供たちに食べさせてと言って彼の釣果の半分をもらった。

帰宅して何十匹というヤマメの腹を出し、妻が焼き魚にしてくれ、夕食のおかずとなった。

3人の娘たちは、「美味しい」を繰り返しながらあっと言う間に全部食べてしまった。

僕は殆ど食べなかったが、子供たちは美味しさを分かっているんだと思った。

幸福感が強く印象に残った。

神一行の「橘曙覧『たのしみ』の思想」を読んだ。

”たのしみは まれに魚烹(に)て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時” 橘曙覧(たちばなのあけみ)

食べるさまを見て、この充実感は何だろうと不思議に思ったが、この句を詠んで分かった。

その時から橘の句が好きになった。

”たのしみは 朝起き出でて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見るとき”

生活の苦しさや不幸をあからさまに嘆く姿勢は生理的に好きではなかった。

そういうなかにあっても、どこか光明を探していたかった。

人にしても然り。誰でも短所があり、でも長所はもっとたくさんある。

そんな明るさを探していたいし、人を褒めそやす訳ではないが、いいところを認識して欲しいと願った。

啄木の歌は、時にどこか不遇や愚痴の句があり、あまり好きになれなかった。

曙覧の句は明るさと喜びに満ちて、困窮した生活のなかでも恬淡とした味を持ち、あるがままの小さな喜びを素直に歌っていると思った。

私たちの生活は、確かに昔には戻れない。

懐古主義ではなく、現実の経済をいかに理解し、分析し、知恵を出していかなければならない。

社会起業家の田坂広志さんは、著書の中でヘーゲルの弁証法を繙いて、「事物の螺旋的発展の法則」を書いている。

”物事の変化・発展、進歩・進化は、あたかも「螺旋階段」を登るようにして起こる。螺旋階段を登る人を横から見ていると、上に登っていくが(進歩・発展)、この人を上から見ていると、階段を一周回って、元の位置に戻ってくる(復古・復活)。ただし、これは螺旋階段であるため、必ず、一段高い位置に登っている。すなわち、物事の変化・発展、進歩・進化においては、古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活してくる。”

現実を見回すと、「螺旋的発展の法則」の事例は枚挙に暇が無い。

私たちの生活は、常に二律背反の対立する概念に囲まれ、それを発展させることの困難に直面している。

しかし、弁証法的止揚(アウフヘーベン)のなかで、螺旋的に上がっていかなければいけない。

人が集まったり、去って行ったり、そこには複雑な人間の感覚が棲んでいる。

田坂さんの言うように、「知識」、「関係」、「信頼」、「評判」、「文化」、そんな共感資本の蓄積は必須である。

そして、その中に人が「充実感」、「幸福感」を見い出すことが出来れば、真の意味で「地域貢献」が可能となる。


2013年7月23日(火) 

「午後の最後の芝生」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

仕事のことを中心に書くとストレスが溜まるので、全くかけ離れた事柄を文章にしようと考えている。

今回は、今をときめく村上春樹大先生の作品について、恐れながら僅かばかりの私見を述べさせていただければと思う。

先日、ある若者と東京の恵比寿でグラスを傾けながら食事をした。

彼はずっと寮に入り、最終年では寮長として、秋のフィナーレを飾る、恒例の騎馬戦の隊長として活躍したようだ。マスコミが取材に来るような、大騎馬戦大会らしい。

騎馬戦の組織戦術、戦い方を熱っぽく語る彼の口調に、今時の若者らしからぬ迸る情熱を感じ、思わず引き込まれ、微笑ましい好感を持った。

そういうバンカラ風の寮らしい。

村上春樹はその寮に住んだことがあり、途中で引っ越したようだが、少しばかりのエピソードを聞くにつけ、文学青年とジャズ愛好の両面を持っていた若者だった。

彼の作品は、「風の歌を聴け」以来、「ノルウェーの森」しか読んだことが無かった。

短編や長編を読んだかもしれないが、すぐに思い出せる記憶が無いというのは、さほどの感動がなかったのだろう。

国内だけではなく、世界中にファンがおり、何故そうなのか、想像はできてもはっきりと分からない。

今回読んだのは、「中国行きのスロウ・ボート」に収められている「午後の最後の芝生」である。

学生時代に安岡章太郎の「ガラスの靴」を読んで、アンニュイな独特の雰囲気の読後感を味わったが、あの時の感情が蘇ってきた。

心象風景の記録というか、人間の心を追いながら、時には自己を深く見つめ、或いは第三者の目から推測したり、様々な角度に照準を当てながら村上春樹のセンテンスを構築していく。

彼の構文はなんとなく嬉しくもあり、一つ一つの言葉がさりげなく押しつけもなく掲示されている。

だから、自分が選択してポジティブに取りに行こうとすれば、すぐそこで味わえるような感覚を起こしてくれる。

何となく読後感がいいと言おうか、温泉のぬるま湯にでも長く入って、外に出たら秋の微風が頬を撫でて通って行くような、そんな心地よい、乾いた感じを与えてくれる。

そう、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」に通じるような、一瞬の夏なのだ。

言葉そのものではなく、言葉を繋いだ文章の連鎖を通じて、程よい軽さを感じる。

それを取りにいくかどうかは読者次第で、その辺が平易と難解の錯覚の所以かもしれない。


2012年9月4日(火) 

「松下センセのこと」 事務長 甲斐敏幸

松下竜一のことを地元の方は愛着をこめて「松下センセ」と呼ぶ。

彼の著作を初めて読んだのは「豆腐屋の四季」だった。

「泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん」。

母の急逝のために進学を断念し、父の豆腐屋を手伝いながら、出来損ないの豆腐に怒りをぶつける。

どん詰まりの生活、明日が見えない暗さの中で、彼の唯一の楽しみは短歌であった。

そして11歳年下の洋子さんと出会う。その出会いは野菊の墓の政夫と民子のように美しく感じた。

「我が愛を告げんには未だ稚(おさな)きか君は鈴鳴る子鋏つかう」。

やがて結婚し、子供が3人生まれるが、年収は120万くらい、多い時で200万で、これで妻と子供を養っていく。

1969年に臼杵市の風成(かざなし)地区で、環境汚染の防止運動がおきた。

セメント会社がこの地区に工場を建設しようとしたことから、臼杵湾の自然を守れと、風成の漁民が反対運動に立ち上がった。

松下竜一は綿密な取材をして「風成の女たち」を書いた。この運動は漁師の留守を預かる女性たちが主役だった。

「自分たちの主張の、どこに間違いがあろう。鏡のように澄んだ心だ。自分たち女は酒も飲まぬ、補償金にもたぶらかされぬ、地位を欲しいとも思わぬ、ただ母として子供らにこの美しい村と海を残し続けたいだけなのだ。女たちはそう思っている。その一点だけを踏まえてなりふり構わぬ行動に走る。特別な指導者もない彼女らに、理論も展望も未だあるはずはない。ただわいわい集まっては、今日は何をするか、明日はどうするかを皆で考え合う。」

若い頃に読んだせいか、涙なしには読めないものであったと記憶している。

後年、室原知幸さんの「砦に拠る」の発表、豊前火力発電所の建設反対運動に繋がり、30年以上にわたり「草の根通信」を発行することとなる。

環境汚染を憂い、反対運動に一人の人間として立ち上がり、そして輪が広がっていった。

一本の小枝は折れるが、それを束ねると折れることはない。

その頃は、環境問題では「公害原論」の宇井純先生が被害者の立場に立って、水俣闘争などを繰り広げていた。しかし、環境権を提唱して活動を起こしていたのは松下竜一が初めてであり、時代を先取りしていたように思う。まして、今の日本においては、彼はもっと知られなければいけない。

「国家がすべての人々に対して公正であり、個人一人ひとりを隣人として尊敬をもって扱うようになる日を、僕は夢見る」。ヘンリー・デヴィッド・ソロー

NHKの「ラジオ深夜便」に出演した時に、彼のお話を聞いた。

九州の片田舎から列車に揺られて、はるばる東京まで来たということを語っていた。

滑らかな口調の女性アナウンサーとは対照的に、訥々とした語り、時には沈黙が続くような話し方。

生き方も話し方もぎこちない不器用さに、僕はホッとするような安堵と親近感を覚えた。

「松下竜一その仕事展」が開催された時に、友人の佐高信さんが記念講演した。

二人が結び付いた共通点は何かを考えたとき、飄々として何ものにも拘泥せず、常に市民と同じ低い目線を持っていることだと思った。

その時の松下さんのお話もいつものように訥々として、自身の言葉を噛みしめながら話していた。

彼は便利さとしての文明を分別なく受け入れるのではなく、人々や自然への犠牲を最小限に留めながら、いかに自然と共生できるかを考えた人だと思う。

その生涯を通じた一貫性こそが彼自身であり、今も煌めきの中にいる作家たる所以なのである。

晩年の松下さんは、洋子さんと毎日のように山国川の堤防に行き、時折もらってきた食パンの耳を飛び交う鴎にあげていた。

その光景に代表される演劇作品が「かもめ来るころ」で、高橋長英さんと斉藤ともこさんの二人芝居で全国を公演行脚した。

大分の音の泉ホールで見たが、とても感動的で温かな気持ちになった。

売れない作家の生活は相変わらず苦しかったが、洋子さんが仕事をすると、犬と散歩する時間が無くなると言っていたそうだ。

こんなほのぼのとした生活を垣間見るに付け、隣の青い芝生を羨みながら、どうすれば心の平安を伴う幸せを得ることができるかを考えてしまう。

松下さんは僕に取っては特別な存在の作家である。齢を重ねる度にその重みを感じる。

落ち着いたら彼の全集を古本屋で探して購入し、楽しみとして読みながらその息吹に触れられたらと考えている。

「人にとって、急がないという決断ほど有益なものはない」。ヘンリー・デヴィッド・ソロー

あとがき

ネットでお知り合いになった方がいる。その方は大分県出身の方で、俳優をされている。

「松下さんはもっと知られなければならないとの思いで書いている」とのメッセージをもらった。

自分もそう思っていたが、何も行動をしていなかった。そんな思いから駄文を認めてみました。


2012年2月16日(木) 

「千住家の教育白書」  事務長 甲斐敏幸

千住3兄妹を育てたお母さん千住文子の著書です。

一番上の兄は千住博で、ニューヨークにアトリエを持つ日本画家。

一番先に知ったのはこの人だった。息を呑む作品に呆然とした。

銀河の明るさの中で、静謐な森に佇む鹿を描いているが、静寂を表現したいのかもしれない。

絵画というのは影を描くことで光が表現されるそうだ。

影というよりも夜の闇の中で、一寸の光を感じて下さいといわんばかりの微弱で緻密な計算が静寂に繋がってくる。

「星のふる夜に」という作品で、なんとなく彼の息吹が感じられるだろう。

次に二番目の千住明。

数々のテレビ番組のテーマを担当している。「自殺狂の詩」を聴いた時は、クラシックの奥深さを感じた。

もちろん妹の千住真理子がバイオリンを弾いている。

二人とも東京芸術大学を卒業した人で、卒業作品は大学買上で永久保存となっている。

千住真理子のコンサートは毎年大分市で行われており、2度ほど聴きに行ったが、300年の眠りから覚めたストラディヴァリウスの低音と水音のような高音が印象的だった。

他のものと聴き分けることは無理な話だが、300年間城に隠されて演奏家が弾くことが無かったようで、それを千住家が数億円で購入したとされている。

三人とも超一流の人達で、僕の心の琴線をくすぐり続けている。

彼らを育てた母と慶應義塾大学工学博士だった千住鎮雄氏。

父の子供に寄せる信頼と励ましと、そして子供達の血の滲むような努力が 今の彼らを形作っている。

才能は一朝一夕には完成出来るものではない。少しずつ一歩後退二歩前進で成長してきた。

彼らの作品には粗野が無い。

育ち方をみれば当然のことで、僕の対極にあるから魅力を感じる。

彼らの作品の中には郷愁に似た切なさと、人生の哀しみと、時折訪れる喜びが 上手に表現されている。


2011年3月31日(木) 

<私のお気に入り> ~読書篇~   事務長  甲斐 敏幸 

「次郎物語」 下村湖人 新潮文庫  上・中・下

中学入学時に叔母から分厚い装丁の本をお祝いとしていただいた。

立派な単行本で、頁をめくるパラパラとした軽やかな音を今も思い出す。

人生の転機において「次郎物語」を何度も読んだ。

それは自分を投影していたわけではなく、少年時代の多感な情緒と相容れるものがあったと思う。

例えば社会正義という理想が届かぬ夢であったとしても、また、明日世界が滅ぶとしても、今日りんごの木を植えたいではないか。

何かに取り憑かれたように邁進する人は輝きを放つ。

本田次郎の波乱万丈の青春は、父俊介のどっしりとした父性愛、乳母のお浜の直接的な愛情に支えられ、それに対する祖母の嫌悪があったとしても、それでも次郎は「常に自らを省みながら、生きる意味を考える」という命題の中で真っ直ぐに成長していく。

平凡で恬淡とした人生は何も得ることができない。

変化や波乱万丈の中にこそ成長のエッセンスが隠されているのではないか。

所属することの安心と連帯は時に自分を埋没させ、やがて流され、命題から遠ざかっていく。

私たちすべてがそれを放棄しているとは言わない。

なぜなら今の東北を見るがいい。イザベラ・バードが見た、純朴で礼儀正しく希望に満ちた日本人がそこにいるではないか。

昨年の5月に佐賀県神埼市の湖人の生家を訪ねたが、次郎物語の世界が時を超えて端坐し、僕はそれらのきらめきをたくさん集めることができた。

2階の子供部屋、そこから見える中庭の井戸、祖母からお仕置きされて閉じ込められた暗い納戸、そして限りなく拡がる小麦畑とクリークの風景。

先日、橋本豊後大野市長とお話しする機会があり、下村湖人の最後の愛弟子である吉田嗣義さんの人となりを伺った。

数ヶ月居座ってアメリカに旅立つつもりだった市長は、吉田氏の薫陶を受け、長らく「任運騰々」の精神を守る砦となった。

湖人の意思は連綿と受け継がれていると思う。

ここ豊後大野市はそんな気風の漂う町であり、湖人が指差した町だったのだ。


2010年9月3日(金)

「山桜」 藤沢周平

「時雨みち」という文庫本の中に収められている僅か26頁の短編です。映画にもなりました。

藤沢周平に関しては、「蝉しぐれ」等で映画化したもの、市井人情ものなどで数篇しか読んでいません。

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」を始めとしてかなりの小説を読んでいますが、読後感は明らかに違います。

両者はそれぞれに素晴らしく大好きなんですが、藤沢周平は細やかな深さが感じられて味わいがあります。

まだ数点しか読んでいないのでよく分かりませんが、弱者の視点から書いているものが多いようです。

日本人は確かに判官贔屓といわれますが、それを差し引いても藤沢周平の作品に流れる概念 は「誠実さ」であるように思います。

何かの本で読んだことがありますが、2.26事件で教育総監の渡辺錠太郎が青年将校らによって射殺された。

その射殺現場に子供の頃居合わせた娘が渡辺和子で、ノートルダム清心女子学園の理事長です。

彼女はマザーテレサが来日した時の通訳だったのでご存知かもしれませんが、彼女がアメリカに留学していた時の話。

渡辺さんが修道会のテーブルに皿を配っていた時に、一人のシスターが、「渡辺さん、今あなたは何を考えながらこの皿を配っていますか?」と聞いた。

渡辺さんは、「えっ、何も考えていません・・・」と答えた。

シスターは、「渡辺さん、あなたは時間を無駄にしています。あなたはこの皿を使う人の幸せを祈りながら配ることができます。

世の中に雑用という仕事はありません」と言った。

簡単な仕事とか難しい仕事とか区別している内は、その程度の仕事しか出来ません。

頼まれた仕事をどれだけ誠実にやっているか。

お茶を入れる仕事は難しい仕事ではないかもしれませんが、それをきちんとこなせないのであれば、責任のある仕事はその人に任せることは出来ません。

社長から言われたことも、部下からお願いされたことも、一旦引き受けたなら淡々と確実にß遂行していく。

1,000人との約束だからする、1人との約束は後回しでは無い筈だ。

10,000人の前でも一生懸命にお話をする。50人でも一生懸命にお話をする。

それが誠実であるということでしょうか。

藤沢作品の底に流れる清らかさは、誠実であるということかもしれません。

そういう匂いがするのだ。