2018年12月15日
「本日は、お日柄もよく」 原田マハ 徳間文庫
言葉や漢字が好きだった。
若い頃、父と一緒に新聞社の漢字試験に出て、父よりも高い点数を取ったときは複雑な気持ちになった。
言葉を組み合わせて相手の心に響く文章を考えるのは、好きな時間でもある。
難解な言葉を避けながらさまざまな思いを巡らし、きらりと光る言葉を紡ぐ。
言葉には力がある。
そう確信したのは涙が出るほどに感動的なスピーチに出会ったとき。
ケネディ、ヴァイツゼッカー、ジョブズ、ムヒカ、セヴァン、マハ。
でもね、小さな子どもが話す何気ない言葉を注意深く聞いてごらん。
きっと懐かしいなかにもハッとさせる言葉を感じるから。
2018年11月23日
「日々是好日」 森下典子 新潮文庫
学生時代に友人と二人で冬の京都を旅行した。大原三千院の前の茶店に上がり、抹茶と菓子をいただいた。
吹き抜けの寒さに、凜として背筋が立つ。竹林越しに見る里の雪景色に、観光客の喧噪は瞬く間に静の世界に変わった。
それから数年後、田舎の茶室の噂を聞き、友人と二人で訪ねた。若い二人の突然の来訪に戸惑いながらも、老婦人はこころよく迎え入れてくれた。
上品な本鳥の子の襖、見事な引き手、柿の木の炉、茶室のすべてが輝いて見えた。
森下さんの本で、「葉々、清風を起こす」という禅語を知った。
清々しかった。
迷わない、前を見る、集中する、そんな勇気が湧いてきた。
森下さんの本を読み始めたのは、映画「日々是好日」の原作と知ってからで、彼女の花鳥風月のとらえ方は僕の心を離さない。
竹の葉擦れの音に寄せて門出を祝す。
背中をぽんと押される、そんなきっかけが人間には必要なのかもしれない。
2018年11月21日
「人口減少社会の未来学」 内田樹編
各界の著名人11人が人口減少について書いた11編を、内田さんがまとめたものである。
とめどなく11編点描するのも定まらないので、平田オリザさんが書いた「若い女性に好まれない自治体は滅びる」という1編に絞ろう。
平田さんの著作は具体的事象がたくさん盛り込まれて分かり易いので、好んで読んでいる。
「二世帯住宅はあまり好まれない。好まないのは親の世代の方で、『自分たちは苦労したから、今さら子どもに同じ苦労はさせたくないし、この歳になってから嫁に気も遣いたくない』と言う」。出だしから相槌を打つ文面が並ぶ。自分が肯定するよりも、日本社会はそういう空気感に包まれている。
「子育て世代は、子どもの育つ環境を一番に考えて住む自治体を選ぶ時代になった。そしておそらく、その決定権の七割、八割は、実質的に子育てを担わされている母親が握っているのではあるまいか」。そうだ。なんとなく納得する。
平田さんは、日本は世界の先進国の中で最も人間が孤立しやすい社会になったと言う。企業社会は崩壊し、古き良き地縁社会は欠乏し、セーフティーネットである宗教もないと書く。
つまり、ゲゼルシャフトとゲマインシャフト、利益共同体と地縁血縁共同体が危機に瀕しているという。確かにOECD加盟国では、韓国に次いで自殺率は2位である。 考え込んだのは次の言葉である。
「子育て中のお母さんが、子どもを保育所に預けて劇場に芝居を見に行くと後ろ指を指される社会と、生活保護世帯が劇場に来ると後ろ指を指される社会は、深いところで、その排除の論理はつながっていると私は思う」。
こども園に預けて夫婦で遊びに行く親、子どもが熱を出して電話したらパチンコの音がして後で行くと言う。そういう現実を聞いていただけに、自分の中の排除の意識にハッとした。
三浦梅園の「価原」には、次のように記している。
「農業が減じれば財も減じる。財が減じれば国家の根本も弱体化する。これが郡県の人口が年ごとに減少し、都会の人々が日々増加する理由である。まことにひとつの感慨をもよおすではないか」。
人が離れる社会と集まって来る社会の違いは何だろう。
人口減少は国家や経済の弱体化につながるかもしれないが、それは果たして斜陽なのだろうか。
人に寛容な社会とは何だろう。
斜陽であったとしても、私たちは周囲の景色を愛でながらゆっくりと下っていけばいい。
そして成熟した社会を目標にすればいい。
2017年2月28日(火)
「小林秀雄の『人形』を読んで」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸
先ずは全文を掲載します。
“或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
細君の方は、小脇に何かを抱えてはいって来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附け方はまだ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私と目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。 もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終わったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢て言えば、和やかに終わったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。“(朝日新聞 昭和37年10月6日)
昭和30年代、僕は小学生でした。そこには、西岸良平の「三丁目の夕日」の世界が広がっていました。母は時々3人の子どもたちを街のデパートに連れて行き、屋上の小さな遊園地で遊ばせてくれました。お腹が空くと、広い大食堂で好きなものを食べるのがお決まりのコースでした。時々立派なレストランに連れて行ってくれましたが、子供心に不釣り合いな印象を持ちました。後年分かったことは、それは母の料理に対する探求心で、学習だったようです。
街の辻々には、兵隊帽を被り白装束に身を包んだ復員軍人が物乞いをしていました。生の戦争を感じたのは、それが初めてでした。自分の目は、その異様さに釘付けとなると同時に、遊びの世界の戦争とは違った、得体のしれない怖さを感じました。
この随想は新聞社への単なる寄稿文ではなく、優れた批評家の文章です。それは自意識をどこまでも削ぎ落とし、作者や老夫婦や大学生を客観視した文章だからです。それが小林秀雄の芸術性を高めています。自分にとって往時を偲ばせる文章です。懐かしくもあり多くのことを感じましたが、前述したように、先ず戦争の恐ろしさに思い至りました。
自分はこういう場面に遭遇したときに、どんな対応をするだろうかと考えました。作者同様に推理し、黙して語らずということになると思いますが、時代性から戦争の残酷さを考えることになるでしょう。細君が乱心でないにせよ、周囲の好奇心と自己の羞恥心よりも深い悲しみを持っています。妻の取り違えた愛情への夫のまなざしに、深い愛情と決意を汲み取り、悲しみでいっぱいになります。恋が時には誤解の果実であったとしても、しかし愛の前提は生涯の規律と決断の継続だと思いました。
社会の矛盾は、常に弱者に付きまといます。チエーホフの短編に、線路をつなぐ釘を盗んだ少年が死刑になる小説があります。少年を裁くのはたやすいことですが、その背後には多くの社会問題があることに気が付きます。人類は、不条理な戦争を途切れることなく続けています。人道的介入の普遍主義は去り、荒療治の過渡的時代に入りました。或る帝国は公正と偽善を織り交ぜながら、よくも悪くも何とか維持してきましたが、善意の国民はやっと気が付きました。野望の帝国の残滓は、まだまだ席巻しており、僕はそれを考える度に憂国の情に駆られますが、知識武装をするしかありません。戦争は強者や富者に優しく、弱者や貧者には嘆きであることを私たちは学びます。
蓋然的な言い方になりますが、人間は誰とも共有できません。苦しみや悲しみを抱えていても、厳粛に考えればそれを言葉で表現することはできませんし、他人に分かることはありません。夫婦への共感や同情は当然のことでしょう。しかし、それを二人に伝え、証明するのは時に暴力となり、非情と映ります。人によっては、言葉の取り繕いをするかもしれませんが、多くの日本人は沈黙という共感を選択すると思います。相手の悲しみを感じ、察し、黙して感じ取ること、これが大切ではないでしょうか。それが日本人の自然さでもあります。もちろん、言葉は発言しなければ伝わりませんし、書かなければ残すことはできません。
前提がそうであっても、場合によって感情や共感を言葉にする空々しさは残ります。その場面で言葉を発し沈黙は取り払われたとしても、違和感という空気は漂います。その悲しみが癒えてなくても、言葉をかける愚は避けねばなりません。もしかけるのであれば、それは自分自身に向けた言葉ではないでしょうか。
世の中を2つに大別すると、支配する側と支配される側に分かれると思います。はっきりと定義せずに概念的に考えてみると、支配する側の人は謙虚な言葉を使います。人の上に立つ人ほど、言葉を注意深く扱い、感情的な言葉を言わないし、批評をしない傾向があります。批評をする人は自己満足で言うことが圧倒的に多く、周りの雰囲気を壊したり、相手を簡単に傷つけてしまいます。人の感情を高揚させたり、いい気分にさせたりする人は、やはり支配する側が多いように見受けます。結果的に、それらがグループとなっていき、2つに大別されていくのだと思います。言葉というのは使い方によって、死に至らしめることもあれば、命を救うことだってあります。
テレビを見ながら時々批評してしまいます。そういう自分自身を振り返る時、幾許の優越を感じるためにやっていないかと反省します。批評は自己満足のためではありません。 様々な立場からの視点を持ちながら、その人の立場に立つことが必要です。自分が良心的に共感した善意は、真の第三者とならなければ、暴力的な善意の第三者となります。日本人はそういう国民ではなく、沈黙という言葉を語り、相手の悲しみに少し触れることを選びます。批評したり所構わず言葉を並べたてる人は、人形の言われを推理し、その正しさの証明を得るためだけの言葉に終始し、善意からはいったにもかかわらず、その真逆をおこなっていることに気が付きません。平易に発した言葉や、時宜を弁えない笑顔も時には暴力となり、相手を傷つけることもあります。そのことを察知した人間が、大学生であり、俯瞰した目で見たのが作者ではないでしょうか。
自我を排除することで伝わりやすくなるときがあります。それは押しつけではなく、受け手の能動に任せるという姿勢だからでしょう。受け手を素直にする言葉の選択は、コミュニケーションの第一歩です。自意識をどれだけ捨て去ることができるでしょうか。煩悩を捨てる努力を重ね、残った言葉を掻き集めたとき、その人の集合された人格が決まり、思いやる心が持てるのではないでしょうか。
意識と言葉には、乖離があります。言葉は心を正確に伝えることはできません。言葉は観念に過ぎず、普段使っている言葉は具体的です。固定的観念である言葉を、個別的な人に正確に伝えるのは不可能です。
旧約聖書の冒頭文は使い古された引用なので、今回は日本の書物を引用します。稗田阿礼が編纂した、日本最古の神話「古事記」に、表現することの困難さが書かれています。
“然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。”
(訳文)“しかしながら、上古においては、言葉も、またその意味も飾り気が無く、漢字を用いて文章を書き表すことは困難でした。すべて訓を用いて記すと、思っているとおりに表現することができず、また、すべて音を用いて記すと、文章がいたずらに長くなってしまいます。そこで、今「古事記」を記すにあたり、ある場合は一句の中に音と訓を交えて用い、またある場合は一つの事柄を、すべて訓を用いて記すことにします。そして、言葉の筋道の分かりにくいものには注を加えて意味を明らかにし、また意味の分かりやすいものには注を加えませんでした。”(竹田恒泰:現代語古事記)
古の人たちは言葉にとらわれない生活を送っていたと思いますが、中国から漢字が入ってきて、生活様式も精神も変化していったようです。沈黙という言葉の使い方、言葉による誤解、意識との相違、多くを注意しなければならないと、この随想を読んで感じました。ただ、沈黙の美徳は日本特有の美意識であり、国際的には理解不能です。自分の意見を正確に伝え、行動することが外交においては誠実の証となります。意識と言葉は、相互に規定されるのではなく、補完の意識を持つことが必要だと思います。
2009年に、村上春樹氏はイスラエル賞を受賞し、「壁と卵」というタイトルでスピーチを行いました。反イスラエルの立場を取り、戦争や暴力行為を批判しました。常に弱者の側に立つという姿勢は、巨大なシステムや戦争の前には恐怖であり、勇気が必要です。しかし、その巨大なシステムは、この随想に出てくる細君のように、人の魂まで奪い去っていく代物です。スピーチの最後の一節を掲載します。
“私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。“
2016年6月17日(金)
「マテオ・ファルコーネの本懐」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸
フランスの文豪プロスペル・メリメの作品に、「マテオ・ファルコーネ」という短編がある。あらすじは分かりやすいが、とても深い。
”17世紀のコルシカ島、マテオ・ファルコーネは、妻と10歳の息子と住んでいた。マテオは村人から信頼と尊敬を集める人物である。
ある日、妻のジョセッパと隣の村に出かけ、息子のフォルチュナートは留守番をすることになった。ずっと家の手伝いをしていたが、そこに捕吏に追われ怪我をした村人が現れ、マテオの知り合いで匿ってくれと頼まれる。
当時の風潮はヴィクトール・ユーゴーの小説にあるように、「助けを求められれば、たとえ罪人でも助ける」というものだった。フォルチュナートは断ったが、村人が銀貨を出すと、小屋の藁の山の中に男を隠した。すぐに2~3人の役人が来て、「男が来なかったか」と聞いた。フォルチュナートは何も知らないと言うが、役人の執拗な詰問は続く。「僕のお父さんは、マテオ・ファルコーネだよ」と言うと、ある役人が「マテオの家なら諦めましょうか」と言って、立ち去ろうとする。しかし、1人の役人が「本当のことを言ったら、これをやる」と、鎖のついた懐中時計を見せた。フォルチュナートは、黙って藁の山を指差した。男は縄を打たれ、「お前は裏切り者だ」と言った。
男を連れ去ろうとするところに、マテオ夫婦が戻って来た。男は、「この家は裏切り者の家だ」と罵った。役人が「この子のおかげで、こいつを捕まえることができました」と言ってお礼を言った。
役人が去ると、マテオは取り縋る妻を尻目に、息子を連れて裏山に向かった。泣きじゃくるフォルチュナートに向かい、「お祈りをしろ」と命じ、息子はお祈りを捧げる。そして、必死に父に縋り、「お父さん、許してください」と詫びた。しかし、マテオは銃を構え、一発で息子を殺した。
マテオはスコップを取りに家に戻り、妻の問いにこう答えた。
「あの子は裁かれた。神の許へ行った」。”
理解し難い話だが、こういう倫理観がコルシカ島にあった。背景は厳格な宗教の教えかもしれないが、裏切りという行為の背信性の大きさを語っている。日本における武士道に通じるものがありそうだが、10歳という年齢は保護と愛情の対象であり、同時に教育の対象でもある筈だ。メリメの深い意図がどうも読み取れない。
スケールは違うが、自分が子どもの頃に似たようなことがあった。母が病気で、僕は遠い祖父の家に預けられていた。そうだ、ちょうど10歳の頃だ。祖父は法律家で、今思えばマテオのような男だったかもしれない。過ちを犯した自分に、祖父は何も言わずじっと目をみた。僕は下を向いた。祖母が優しく諭してくれた。沈黙ほど怖いものはないことを、その時知った。
城山三郎の「男子の本懐」は、浜口雄幸のことを書いた小説である。昭和5年、東京駅で暴漢に3発撃たれ、何度も手術を受け、一命は取りとめたが一進一退を繰り返していた。折しも国会継続中であり、野党から厳しい追及を受け、今国会会期中に必ず登壇することを文書で伝えた。しかし、再び容体は悪化し、絶対安静が必要であり、起きて国会に出ることは死を意味した。浜口は娘を呼びこう話した。
「自分は国会に出る。会期中に国会に出るという総理の約束は、国民に対する約束である。出ると言って出ないのでは、国民を欺く。国民との約束を総理たるものが破ったら、国民は一体何を信用して生きていけばいいのか。だから自分は言い訳などしないで、死んでもいいから国会に出て、国民に対する約束を果たす」。娘は母と医者を説得し、浜口は歴史に無い悲壮さで、総理として国民に対する約束を守った。
「政治は国民道徳の最高水準たるべし」と説く言葉に、これほど憧れを持つのは今の世情ゆえだからだろうか。約束を守る、そのことに命を懸ける。今の政治家はこれだけの思いをもってやっているのか、そう問いたい。
今度の選挙はこういう思いを持ちながら、1票を投じたいと考えている。